「タバコ病訴訟」控訴審判決に対する抗議文
日本禁煙推進医師歯科医師連盟 会長 大島明
平成15年(ネ)第5978号損害賠償等請求控訴事件(いわゆる「タバコ病訴訟」控訴審,以下,本控訴審と略)に対し,平成17年6月22日,東京高等裁判所にて言い渡された判決(本判決と略)http://www.anti-smoke-jp.com/~saiban/ は,本連盟として看過できない重大な誤りがあるため,以下の通り抗議する。
はじめに
本判決は,原判決(東京地方裁判所平成10年(ワ)第10379号)よりも婉曲的表現を用いてはいるものの,原判決を全面的に支持している。1964年にタバコの健康被害を強く警告する米国公衆衛生監の報告書が出て以来,繰り返し,より厳しい医学的警告が出ている。わが国においては,厚生省編集のいわゆる「たばこ白書」第1版・第2版や「新版 喫煙と健康(喫煙と健康問題に関する検討会報告書)」1)が代表的なものといえる。しかし被控訴人日本たばこ産業(JTと略)は,本年に至るまで強い警告表示を行わなかった。これはJTの責任のみならず,タバコ規制について,被控訴人国の大蔵(財務)大臣は監督権を,厚生(厚生労働)大臣は規制権を,国会議員は立法権(例えば「タバコ規制法」の制定)を行使せずにきた不作為によるところが大きい。本判決は,「国会議員の立法不作為は憲法が一義的に明文で命じているにもかかわらず国会があえて当該立法をおこなわないというような,容易に想定し難いような例外的な場合でない限り,国家賠償法第1条第1項の適応上,違法の評価を受けないというべきであるところ,憲法上たばこの製造・販売を規制する法律の立法が要求されていると解すべき根拠はない。」(11ページ21〜26行)と述べている。しかし憲法第25条には「すべての国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は,すべての生活部面について,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と明記されている。
平成15年に施行された健康増進法第25条に受動喫煙防止が明記されている通り,喫煙の害は3300万人といわれる喫煙者本人のみならず,受動喫煙の健康被害によって国民全般に及ぶというべきである。また世界保健機関(WHO)の警告では,毎年タバコ病による死者(そのほとんどが天寿を全うできず,早世と考えられる)は,わが国で11万4千人にものぼり,国民の全死亡の12%を占めるに至っている。また喫煙者の二人に一人は,タバコ関連病で死亡し,その平均寿命は非喫煙者に比し約12年短いと推定されている2)。即ち,タバコ使用の結果もたらされるものはタバコ病による喫煙者の早期死亡であり,その発現率は実に50%に上るのである。このような重大な健康被害に適切な対応を取らず,漫然と看過してきたことは,製造者であるJTの製造物責任法の重大違反であるに留まらず,国民の命と健康を守る責務を有する国の「容易に想定し難いような例外的場合」に該当する,信じがたい不作為と判断され,国家賠償法第1条第1項をも適用すべきであった。
消費者保護法第7条には「国は国民の消費生活において商品および役務が国民の生命,身体,及び財産に及ぼす危害を防止するため,商品及び役務について必要な危害防止の基準を整備し,その確保を図る等,必要な施策を講ずるものとする。」と定められており,上述の国民全般に及ぶ予防可能であったはずのタバコによる健康被害を考えれば,国の不作為による重大な過失は免れない。そして,本判決の「消費者保護基本法第6条および第7条など同法の定めは,消費者行政における施策の概括的方向を明らかにするものにすぎず,特定の内容を義務付けるものではないし,同法が存在することによって控訴人らが主張する立法行為が憲法上要請されることになるものではない。」(11ページ26行〜12ページ3行)という本判決の判断は明らかに誤りである。
「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約(FCTCと略)」3)は,2003年5月の世界保健総会においてわが国を含む全会一致で採択され,本年2月27日に国際条約として発効した。わが国は2004年3月これに署名,同年6月批准して締約国のひとつとなっている。その前文に,「たばこの消費及びたばこの煙にさらされることが死亡,疾病及び障害を引き起こすことが科学的証拠により明白に証明されていること並びにたばこ製品の煙にさらされること及びたばこ製品を他の方法により使用することとたばこに関連する発病との間に時間的な隔たりがあることを認識し,紙巻たばこ及びたばこを含む他の製品が依存を引き起こし及び維持するような高度の仕様となっていること,紙巻たばこが含む化合物の多くに及び紙巻たばこから生ずる煙に薬理活性,毒性,変異原性及び発がん性があること並びにたばこへの依存が主要な国際的な疾病の分類において一の疾患として別個に分類されていることを認識し,(後略)」と書かれており,本判決はFCTCに反したものとなっている。
以下,判決の判断の番号に沿って反論する。
1)タバコの有害性について,本判決は「現在のところ十分解明されているとはいい難い。」(12ページ26行)と,現在の医学常識1)やFCTCと正反対の誤った判断を行っている。特に控訴人が罹患した疾患は,肺癌・喉頭癌・肺気腫であり,これらは「タバコ病」の代表格の疾患であり,疫学に基づくタバコの相対危険度や人口寄与危険率を否定することは,現代医学の否定につながる。肺癌については,国際肺癌学会が2000年に「肺癌の原因の90%はタバコに帰せられるべきである」という東京宣言を行っている。喉頭癌については,100%に近い人口寄与危険率が指摘されている。肺気腫は,慢性気管支炎とともに最近ではCOPD(慢性閉塞性肺疾患)と呼ばれている。日本呼吸器学会が2004年に発行した「COPD(慢性閉塞性肺疾患)診断と治療のためのガイドライン第2版」によれば,「1960年代以降,タバコ販売量や消費量が増加し,これに約20年遅れて「慢性気管支炎及び肺気腫」の死亡率が増加している。」(2ページ)と日本の疫学調査を総括し,「喫煙はCOPDの最大の外因性危険因子であり,COPD発症に関与することは確立されている。90%近くのCOPDは喫煙者である。」(7ページ)と海外文献を引用して述べられている。海外でCOPD の原因として見られる遺伝性疾患のアルファ1アンチトリプシン欠乏症は日本では極めて稀なことから,日本では喫煙のCOPD発症への人口寄与危険率は90%以上と考えられる。
2)タバコ(ニコチン)の依存性について,本判決は,「その依存性の程度は,身体依存については心理的症状がほとんどで依存の程度は微弱であり,精神依存についても,ある程度の依存性はあるものの,その程度は禁制品やアルコールより各段に低く,喫煙者自身の意思及び努力による禁煙ができないほどのものではないというべきである」(14ページ22行〜25行)としている。しかしニコチンは,脳の側座核に働いて強力な身体依存を形成することは,周知の事実で,FCTCの前文にも引用されている。本判決は,被控訴人JTが実質的に運営する喫煙科学研究財団の資金提供を受けた学者の論文に依拠しており,真実を誤認している。なお,1990年代後半,ニコチンガムやニコチンパッチを使用したニコチン代替療法の出現により,禁煙成功率は1年後で30%前後に上昇してきた。しかし控訴人らが喫煙していた時代にはニコチン代替療法は存在せず,自分の意思と努力による禁煙成功率は,1年後で5%前後であった1)。この事実をもってすれば,「喫煙者自身の意思及び努力で禁煙できるのは約5%であり,約95%は禁煙できない。それほどニコチンの依存性は強い。」のであり,本判決の誤認は明白である。
3)被控訴人JTがタバコを製造・販売することの違法性について,本判決は,「たばこ事業法によって製造・販売が是認されているたばこを被控訴人日本たばこが製造・販売すること自体違法なものということはできない」(15ページ21行〜22行)と述べている。また「1972年からはたばこの包装に健康への危険性に関する注意表示がされるなどしてきた」(15ページ15行〜16行)とJTの主張を認めている。しかし,この「注意表示」は,「吸いすぎなければ健康に被害はない」とも解釈できる「言い訳」にすぎず,豊富な資金を使っての莫大かつ巧妙な広告宣伝の免罪符であり,到底「警告表示」といえるものではなかった。JTは製造物責任法の成立後も,「言い訳表示」を続け,FCTCの発効後の本年になって,ようやく最低限の「警告表示」に切り替えた。JTが製造物責任法に違反していたことは明白である。また,たばこ事業法自体が,憲法第25条の生存権(健康で文化的な最低限の生活を享受する権利)違反である。
「健康で文化的な最低限の生活」には,「健康に関する最低限必要な科学的情報の提供を受ける権利」も含まれるはずである。「警告表示」の代わりに「言い訳表示」を続けたJTの企業姿勢は,憲法第25条違反と言わざるを得ない。また,FCTCの前文には,「世界保健機関憲章の前文において,到達しうる最高水準の健康を享受することは,人種,宗教,政治的信念又は経済的若しくは社会的条件の差別なしに万人の有する基本的権利の一つであることが規定されていることを想起し,(後略)」と書かれている。被控訴人JTが,タバコを製造・販売することによって,控訴人らの基本的権利を侵害したことは明白であり,その違法性も明らかである。
4)被控訴人国の違法行為について,本判決は「大蔵大臣や厚生大臣が被控訴人日本たばこの製造・販売の禁止や製品の回収を命じなかったこと等が裁量権の範囲を逸脱し,著しく不合理であったとまでは認め難いものである。」(16ページ13行〜15行)と述べている。しかし既述の通り,このような莫大な健康被害と犠牲者を漫然と看過してきたことは,国民の命と健康を守る責務を有する国の「容易に想定し難いような例外的場合」に該当する恐るべき不作為と判断されるべきで,国家賠償法1条1項を適用すべきであった。
5)喫煙と病気の因果関係について,本判決は「本件のように非特異的疾患に罹患している個人の疾病発生原因を検討する上では,ある一つの要因に関する疫学的研究成果にのみ依拠して判断を下すことができるものではなく,当該個人の他の要因への曝露の有無や基礎医学的,臨床所見等の個別事情を踏まえて総合的に判断することが必要であるところ,本件において控訴人らないし死亡した被承継人の疾病と喫煙との因果関係を肯定することができないことは,原判決(61頁から62頁)が判示するとおりである。」(18ページ2行〜8行)と述べ原判決を支持している。しかし,控訴人の罹患した肺癌・喉頭癌・肺気腫は,いわゆる「タバコ病」の典型的な疾病であり,タバコとの極めて強い因果関係があることは,現代医学の常識である1)。また,本判決は「疫学調査の結果算出される相対危険度及び寄与割合は,集団を対象とし,疾病と要因との間の一般的な関連性の程度を定量的に表現するために算出されたものであり,曝露群に属する特定個人の疾病発生原因を判定することを目的としたものでなく,したがって,これら数値のみによって個人の疾病罹患原因を判定することはできないものというべきである。」,「特に,あるひとつの要因と疾病に関する曝露群寄与割合は,他の要因の影響を除外して算出された数値であり,この数値を本件のような非特異疾患に罹患した個人に適用しようとする場合には,現実には,疾病の原因として他の複数の要因への曝露が考えられるため,これらの要因の影響も考慮に入れないと疾病発生原因を特定することができないものである。」(17ページ7行〜18ページ1行,括弧内省略)と被控訴人の主張を全面的に認めている。しかし「これらの数値のみによって」判定しないにしても,「それを十分考慮して」判定しなければ科学的判定の名に値しない。特定個人の生活歴に,タバコ以外の要因(例えば大気汚染など)があったとしても,これらを勘案した上で,喫煙による特定個人の疾病への寄与割合を計算する以外に,科学的方法はありえない。その科学的鑑定すら依頼することなく放棄した本判決は,無責任極まりない。
その意味でこれらの疾患を「非特異的疾患」と断じた本判決は,医学的常識を逸脱している。また,「総合的判断の必要性」を説きながら,「臨床所見等の個別事情」を考慮し,医学的鑑定を依頼した形跡もなく,安易に原判決を踏襲した本判決は,厳しく指弾されるべきである。
おわりに
本件は,控訴人によって最高裁判所に上告されたとのことであるが,最高裁判所におかれては,本抗議文の趣旨をも勘案され適切な判断をお願いしたい。さもなければ,控訴人はJTの情報操作,国の行政・立法の不作為によって,憲法で保障された生存権を侵害され,司法でも救済されないことが確定する。これは先進国では例を見ない事象であるに留まらず,わが国がFCTCに加入した後も,司法はFCTCを無視しているという由々しき国際問題にも発展する。またタバコ健康被害認定について,医学的証拠を採用しない判決は,わが国が健康に関しては文化的国家ではないことを,世界に露呈する危惧を表明せざるを得ない。
なお,秋葉澄伯教授と津田敏秀教授との公開討論会「喫煙対策戦略会議:疫学的知見の個人への適用」4)において,秋葉教授は「疫学調査等で問題の要因と疾病との因果関係がよくわかっているときに,その結果を基にして個人レベルでの因果関係を評価することは可能である」とし,喫煙と肺がんなどの疾病との関係に関しては,「疫学調査等で因果関係がよくわかっているとき」に相当すると述べていることは特記するべきである。秋葉論文5)「論説:疫学研究は個人レベルでの因果関係を評価できるか」をもって,喫煙と肺がんなどの疾病に関する疫学研究の結果について「(疫学研究の結果は個人に適用できるとする津田)先生の考え方は採用されない」と主張することは出来ない。
本抗議文は,薗潤幹事が草案を準備し,幹事一同が検討して作成したものである。
文献
1)喫煙と健康問題に関する検討会編.新版 喫煙と健康.保健同人社.2002.
2)Peto R, Lopez AD et al. Mortality from smoking in developed countries 1950-2000.
http://www.ctsu.ox.ac.uk/~tobacco/SMK_P5.pdf
3)たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約.
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/treaty159_17a.pdf
4)大島明.公開討論会「喫煙対策戦略会議:疫学的知見の個人への適用について」の報告.日本禁煙医師連盟通信 2003;12(2):9-10.
5)秋葉澄伯.論説:疫学研究は個人レベルでの因果関係を評価できるか.環境と健康998;11(39):120-132.